Retrovirus
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忘れられぬひと

 誰かに呼ばれた気がして引っ切り無しに走らせていたシャープペンを止めて顔を上げた。
 すぐ側の壁掛け時計に目をやると、いつの間にか午後の9時を回っていて思わず苦笑を零してしまった。
 屈み気味だった身体を起こして大きく背伸びをする。
 同じく大きく深呼吸すると、換気をしようと座っていた椅子から腰を上げて窓辺へと向かった。
 引いていたカーテンを開けると、窓の向こうが薄く煙って見えた。
 ガラス越しにしとしとと降る雨音が聞こえてくる。

 そういえば、天気予報ではもしかしたら今夜にでも初雪が降るかもしれないなんて言っていた気がする。
 雪になりきれずに雨のまま降ってしまったみたい。
 ちょっと残念かも。

 雨が入らない程度に窓を開けてその場を離れると、控えめなチャイムの音が聞こえた。
 こんな時間に誰だろう?
 そのまま玄関に向かって、まずドアレンズを覗いて見る。
 暗がりに立っているのか顔までは確認出来なかった。
 けれど、何となく私の知っている人間だと思って玄関のドアを開けた。

――――――

 驚きですぐには声が出なかった。

「ちょっ……どうしたの?」

 何だって、こんな。
 立ち尽くしていたのは良く知った親友だった。
 それも、全身ずぶ濡れで。

「……とにかく、入って。冷えるから」

 促されて重い足取りで中へと入る聖を確認して玄関のドアを閉める。
 今が一人暮らしで良かったと思った。
 これが実家ならちょっとした騒ぎになっていたかもしれない。

「ちょっと待ってて、タオル持っ――――

 踵を返していざ足を踏み出そうと思った時。
 強い力で手を引かれた。

「……ここにいて」

 そうして、少しの間を置いて小さな呟きが聞こえて来た。

 ドキリとした。
 握られた手の冷たさにも。
 今にも泣いてしまいそうなか細い声にも。
 壊れてしまいそうな彼女の感情が手に取るようにわかってしまったから。

 ゆっくりと振り返る。
 少し伸びた髪が表情を隠している。
 手はしっかりと繋がれたまま、時折小さく震えているように思えた。
 久しく見せなかった感情を抑えた姿が、痛いと感じる。

 切ない痛さではなく、下手をすれば気が狂ってしまうのではないかと思わせる過去の傷跡。

 繋がった手から滴り落ちた雨の雫が私の指先を伝って、ぽつりと床に落ちる。
 それに気付いて、まだ彼女がずぶ濡れのままだった事を思い出した。
 すぐ側のテーブルの椅子の背に掛かっていた使い掛けのタオルを引っ張り上げると、まだ多いに水分を含んでいるであろう頭に被せて空いている手でタオル越しに髪を撫でた。

「とにかく、シャワーでもいいから使って温まりなさい。このままだと風邪を引くわ」

 離された手も合わせて、丁寧に髪を拭ってから濡れている頬や首筋を拭う。
 何も返事を返さない親友にもわかるように小さく溜息をついて見せて、

「今は、言う通りにして」

 小さな子供に言い聞かせるようにゆったりと言葉を掛けて、うな垂れている頭をそっと胸に抱き寄せた。

 あの頃のまま傷を負って血を流したままの心も。
 いまだに奥底で眠っているその想いも。
 私にはわかるから。

 だから今は。

「いい? 聖」

 あなたの安息を、私に委ねて?

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