Retrovirus
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ジレンマ

 あ、泣くな、と思った。
 思ったら、途端に粒が頬を流れた。
 悲しいわけじゃなかった。
 けれど、一度溢れてしまった涙は止める事が出来なかった。

 その原因が何なのか。
 きっと私はわかっている。
 でも、それだと認めるのは癪だから。
 今背中を合わせている温もりのせいなんだと、思うことにした。

 ごそりと背後の気配が動く。
 合わさっていた温もりが離れて。
 さっきまであった熱が冷気にさらわれて。
 流したままの涙の筋を、再度、伝い落ちた。

 何をこんなにも感傷的になっているんだろう。
 何かを悲しいと思っているわけじゃないのに。

 ガタンと何かが床を擦る音の後、遠退いた足音がまたこちらへやって来た。

「いつまでしょげてんの」

 笑いを含んだ声と共に頭の上に手を置かれた。
 そのままぽんぽんと軽く叩かれる。
 人を子供扱いするその手を振り払おうとして、何となく、思い止まった。

「おーい」

 ぽんぽんぽん。
 返事を促しているのか、すぐ横で立ち止まった気配はなかなか立ち去ろうとはしなかった。

「こら、返事しろ」

 意外と短気なこいつは、窓の外へと目を向けている私の前へと回り込んで。
 笑いながら壁に背を預けてその場にしゃがみ込んだ。

 人の顔を見てヘラヘラと笑うこいつを見ていると、何か、ムカつく。

「バカ」

 だから、いつものようになじってやった。
 なじったからと言って何が変わるわけでもないのだけど。

 目の前のバカはさっきから同じヘラヘラした笑みしか浮かべていない。
 それにもう一度だけバカと付け足して、抱えた膝に顔を埋めた。
 
 笑う顔を見る事はあっても、それは私に向けられたものではなくて。
 他の人に向けられるものと同じだとしても、真っ直ぐに笑いかけられると何だか居心地が悪い。
 それじゃなくても、一番見られたくないやつに涙を見られているんだし。

 制服の袖に顔を押し付けて、濡れた頬を拭った。
 肺に溜まった湿っぽい息を大きく吐き出して深呼吸する。
 こいつの言う通りいつまでもウジウジ……まぁ、したくてそうしてるわけじゃないのだけれど、しょげてるわけにはいかない。
 そうはいかないのに。

「えーりちゃん」

 軽薄な声が笑みを含んで私を呼んだ。
 背筋がゾワッとした。
 反射的に少し顔を上げて目の前のにへら顔を睨む。

「はは、効果てっきめーんっ」

 思った通りだ、なんて、鼻に皺を寄せて笑って。
 その笑顔に、また居心地が悪くなる。

 そもそも、どうしてこいつはこんなに私に構うのか。
 構って欲しいなんてひとことも言ってないのに。

「意外と子供っぽいんだよね、えりちゃんは」
「だから、」
「だから、目が離せない」

 さらりと、思ってもない言葉を掛けられる。
 途端に、カッと体温が上がったような気がした。

 こいつは、一体、何を……っ?

「なーにを照れているのかな、えりちゃん?」

 壁に縋っていた背を離すと、直ぐ足元までにじり寄りニヤニヤと面白そうに私を見上げている。

「いい加減にしてくれない?」
「あーもう、相変わらず素直じゃないなぁ」

 よっこらしょ、と親父くさい掛け声と共に立ち上がって、ついでにとさっきと同じように私の頭をぽんぽんと撫でた。

「……何?」
「別に」

 笑みを零しながらも、頭を撫でる手を止めようとはしない。
 不意に、視界が揺れた。
 頬を流れる感触で、止まったと思っていた涙が溢れ出したのだと理解して。
 またそれを見つかる前に、顔を膝に埋めて隠した。

 何だか癪だった。
 じゃあ何が癪にさわるのかと思い返して、やっぱりムカつく事しか思いつかない自分が腹立だしいと思った。

 悲しいと思って流れた涙じゃない。
 流そうと思って零した涙じゃない。
 これは。

「誰にも言わないから、泣いちゃいな」

 茶化すような声がふわりと心を撫でた。
 少し遅れて、細い指が髪を撫でる。
 そのゆっくりとした動きに、今までそうと思わないようにしていた想いと。
 それに伴った感情が、少しづつ湧き上がっていた。

 他と同じ笑顔を向けられる事も。
 意味もなく私を真っ直ぐに見つめるあの瞳も。
 人を子供扱いするこの手も。
 本当に、イライラする。

 けれど一番頭にくるのは。

 今のこの状況がずっと続けばいいと。
 他の誰かにも向けられる優しさでも、今この時だけは私を想えばいいと。

 そんな風に思ってしまっている自分自身にだった。

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