Retrovirus
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幻-げん-

 近づいたと思った唇が、あと数センチで触れるという距離で止まった。
 目は開かれて私を見ている。

 ……それは、否。

 私を透かして、遠く何かを見つめていた。
 しばらくそのままで見つめ合って。
 先に、彼女が動いた。
 息が掛かる程の至近距離がぐっと遠退き、腕を伸ばさないと相手に届かなくなる。
 眉間に僅かに皺を寄せ眩しそうに目を細めた聖が、小さく息を吐いた後、乱暴に自身の髪を掻き上げた。

 そこでようやく、私は我に返る。
 今……キスされそうになった……?
 今更のように思い、その事実に頬が少し火照るのを感じる。

 はぁ、と一際大きな溜息をついて、聖は後ろにあったコロ付きの椅子を引き寄せると勢いを付けてそれに腰掛けた。
 聖を受け止めた椅子はフローリングの床を派手な音を立てながら動いて、私がいつも使っている机の淵にぶつかって止まった。

――――参った」

 苦笑を零して天井を仰ぐ聖から顔を逸らす。
 何に対しての言葉かわかる自分が心底嫌いだと思った。
 言葉の前後が繋がらなくても、それに続く答えを容易に思う事が出来る。
 それも、大概の事は当たってしまうから厄介だった。
 そしてその答えの殆どは、触れてはならない禁忌なのだ。

 静かになった空間に小さく窓を打つ音が交わる。
 開け放されているカーテンの向こうは暗く煙っている。

 これがキスをやめた理由。
 いつもの、理由。

 そうと認めた途端、頭に血が昇った。
 バン、と乱暴にテーブルに手を突いて腰を上げる。

 何事かとこちらを向いた聖の顔を睨んで。
 その表情を真っ直ぐに見据えて。
 あぁ、やっぱりダメだ、と思った。
 まだそれを責める事は出来ない。
 私にはそれは出来ない、と。

「……蓉子?」

 ピクリ、と眉間が動いた感覚。
 思いとは裏腹に、無意識の自分は余程腹が立っているらしい。
 なんて、冷静に自己分析している内に、随分と開いた距離を詰めて不思議そうに私を見る聖を見下ろしていた。
 色々な色が雑ざった蒼の瞳。
 訝しげに歪められた眉。
 それらを目にしてやっと思考が怒りに追い付いた。

 けれど、それだけ。
 何に対しての怒りかも不透明なままで、だけど何もかもを理解してしまっている自分がいる。

「聖」

 声が震える。
 同時に、彼女の肩も怯えるように震えた。
 そんな仕草にも沸々と感情がかき立てられる。
 もう一度口を開けば、きっとその声は彼女を傷付ける刃になるだろう。

 震えた肩に手を伸ばして触れた。
 もう片手を側の机に突いて、先程と同じように顔を近づける。
 より一層目を細めて私を見る瞳から避けるように。
 ゆっくりと、目を閉じて、唇を寄せた。
 一呼吸の間を置いて、しなやかで堅い感触。
 目を開けると、先程と同じ細められた瞳と視線が交わる。

「……ぁ」

 そして、触れたと思った彼女の唇が小さく、空間に掻き消されるぐらいの小さな声を発した。

 ――――拒絶、された、のだろうか……?

 私の唇を塞いだ手を取って、ゆっくりと剥がす。
 瞳に浮かんだ困惑と怯えを見つめて、詰まりそうになった息を吐く。
 掴んでいた肩が、はっきりと震えていた。
 私に怯えているのか、はたまた強くなった雨音に震えているのか。
 正直、どちらでも構わなかった。
 どんな理由であれ、拒まれた事に変わりないのだから。

 取った手を強く握って、彼女の側を離れる。

 笑ってしまいたかった。
 まだ私は、思い出の中の彼女に勝てない。
 私は、あの人に勝てない。

 ――――まだ、私では。

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