Retrovirus
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綺麗な感情

 ひとつの出来事を終えて、私達はアパルトマンに戻ってきた。
 私は入り口のドアをしっかりと閉め鍵を掛けると、パーカーに忍ばせていた銃をポケットから抜き出しビリヤード台の上に置いた。
 ゆっくりと、視線をミレイユに移した。
 すぐ側の椅子に身体を投げ出したまま上を向いて目を閉じていた。
 ともすればそのまま叫び出してしまいそうな。
 ともすればそのまま涙を流してしまいそうな。
 湧き上がる悲しみを必死に内へ押し止めようとしている、そんな横顔。
 しばらくの間悲しみを湛えたミレイユの横顔を見つめていると、私の視線に気付いたのか薄く目を開いて横目で私を見た。
 そのまま見つめ合ったまま、また沈黙が走る。
 私を見つめていた蒼い瞳が細められた。
 そして、興味が無くなったかのように視線を逸らす。
「シャワー、浴びてくるわ」
 短くそう言うと、腰掛けていた椅子から勢いよく立ちあがり私の横を通り抜ける。
 その後ろ姿を目で追いながらバスルームへと消えて行くミレイユを見ていた。
 彼女にとって『叔父さん』と言う人は、きっと唯一の肉親だった。
 きっと一番慕っていた人だったんだと思う。
 そんな人を、今しがた失った。
 自分の手でその命を消し去った。
 その悲しみは、きっと私ではわからない。
 ミレイユが負った心の傷は、きっと私ではわかってあげられない。
 心に染み入るまでの悲しみを私は知らないから。
 それでも、彼女の憂いた顔を見るのは嫌だった。
 涙を流しそうな顔を見ているのは、辛いと、思った。
 私はベッドルームへ向かうと着ていたパーカーを脱ぎ、スカートも脱ぎ捨てた。
 床に脱ぎ落とした衣服を拾い上げて簡単にまとめる。
 いつも寝る時に着ているタンクトップと短パンを身に着けると、そのまま、ベッドへと仰向けに倒れ込んだ。
 天井で洸々と光る蛍光灯を眩しく思い右手で光を遮る。
 そして、そのまま目を閉じた。
 ミレイユがシャワーから上がったら、まず何を言おう。
 どんな表情で、何を言おう。
 そして、どう接しよう。
 ……そんな事、考えるものじゃないんだっていうのはわかる。
 自然にするのがいい事だって事も。
 一番いいのは、何も言わない事なのかもしれない。
 下手な言葉をかけるよりも、その方が彼女にはいいのかもしれない。
 そんな事を考えていると、遠くで小さくドアの閉まる音が聞こえ、すぐさま側に気配を感じた。
 はっとしてその気配に目だけを移す。
 バスローブに身を包み頭にバスタオルを被ったままのミレイユが私に背を向けて座っていた。
 その後ろ姿が何だか泣いているように思えて、少しづつ胸が苦しくなる。
「寝てるのかと思ったわ」
 振り返らないままでそう言うと頭に被っていたバスタオルを肩にかけ、少し私へと向き直った。
「あんたもシャワー、浴びてきたら?すっきりするわよ」
 多少の笑みを含ませながらそう言うと、座っていたベッドから立ちあがろうとした。
 それにつられるように私は咄嗟に身体を起こす。
「ミレイユ」
 掛けられた声にミレイユが振り返った。
「何?」
「…………」
 咄嗟に呼び止めたものの、実の所は何も考えはなかった。
 ただ、呼び止めないといけない気がしただけだったから。
 何も言わない私を悲しい色を潜めたままの瞳が見据えた。
 沈黙が走る。
「何よ?」
 先程とは違って、柔らかさの中に潜む冷ややかな光が彼女の瞳に宿った。
 これは、いつも見ている瞳。
 私に見せる、いつもの彼女の瞳だった。
 それに、少しだけ安堵した。
「……何か飲む?」
 ふと頭に過った言葉をそのまま口に出す。
 少しの沈黙の後、コーヒーお願いと言い残してリビングへと足を向けた。
 それに短く返事を返すと、私もキッチンへと向かった。
 戸棚からカップとソーサーを取り出し、お湯を沸かすためにたっぷりと水の入った小さなポットを火に掛ける。
 コンロから燃え上がる火を見ながら、ふと、この靄掛かった気持ちに気付く。
 今まで私の中に溢れては消えていったどんな感情にも似ていない。
 物悲しさでもなくて、独りの時に感じる寂しさでもない。
 じゃぁ、これはどんな気持ち?
 言葉で言い表すのなら、これはどんな言葉?
 自分自身に問い掛ける。
 いくら問い掛けた所で答えなど出ない事はわかっているけど。
 感情を知る事は、私を知る事になるような気がして。
 赤々と燃え上がる火を遠く見つめながら、言葉の破片を頭の中で一つ一つ探してみた。
 けれど、どんなに言葉を捜しても、今の気持ちを表せるような言葉は見つからなかった。
 そうしているうちにポットの湯が煮立ち始めた。
 頃合を見計らってコンロの火を止めると、簡式のコーヒーメーカーに豆を掛け、お湯の注ぎ口にゆっくりとお湯を注いでいく。
 数秒後、ほろ苦い香りがキッチン中に立ち込めてきた。
 カップ一杯分の入ったコーヒーポッドを手に取り、出してあったカップに注いでいく。
 ティースプーンと2、3本ほどのティーシュガーをソーサーに乗せ、作ったばかりのコーヒーをミレイユに持っていく。
「……はい」
 遠目に窓の外を見つめていたミレイユに声を掛けて、目の前にコーヒーを置いた。
 返事を待たずにそのまま踵を返して、曖昧な返事を背に受けながら再度キッチンへと向かう。
 手早くコーヒーメーカーを片付けると、自分用にカップを取り出し残ったお湯を使ってインスタントのココアを作った。
 それをゆっくりと啜りながらキッチンを出てリビングへと向かう。
 丁度ミレイユもコーヒーカップに口を付けた所だった。
 彼女の側を通って窓辺へと向かう。
 観葉植物の側に置かれている懐中時計を横目に見ながら、湯気立つココアを少しづつ啜っていった。
 さっきからずっと胸の奥でちらちらと見え隠れしているわからない気持ち。
 一つだけ確かな事があった。
 大切だと思い始めた人を失った悲しみに、少し似ている。
 私に笑顔を見せてくれたあの人を失った時の感情に、似ている。
 失ったわけじゃないけど、何かを亡くした時の感情に、似ている。
 ミレイユがここを出る時にも感じた気持ちに似ている。
 ……ううん、似ているんじゃなくて、その時に感じた気持ち。
 失ってしまうかもしれないと強く感じた、その気持ち。
 違う。
 本当に失ったのは彼女の方なのに。
 きっと唯一の肉親であった大切な人を失ったのは彼女の方なのに。
 どうして私が、そう感じているの……?
「あんたが気にする必要はないわ」
 静かな声が私の耳に届いた。
 その声に振り返る。
 椅子に座ったまま、両手でカップを持った態勢のまま、テーブル台に肘をついていた。
 視線は私の方ではなく、どこか遠くを見たまま。
「……え?」
 聞き取れなかった訳じゃないけど、何となく聞き返してしまった。
――――叔父さんの事を気にしてるんなら、別に気にしなくていいって言ったの」
 カップに口を付けながらそう言葉を吐き出して、コーヒーを口にする。
「もう、終った事よ」
 絞り出すように呟いた言葉の音がすごく悲しく聞こえた。
 その音に反響しているのか、燻っていただけの胸の奥にあった思いが強くなって。
 私はゆっくりと彼女の側に歩み寄った。
 近付いた私を不思議に思ったのかミレイユが私へと顔だけ向き直った。
 無言のまま彼女の瞳を見つめる。
 ついさっき見た、いつもの彼女の瞳は無く、ここへ帰る時に見せていた悲しみ色が光っている。
 それがすごく悲しかった。
 彼女が悲しむのが、悲しいと思った。
 手に持っていたもう空のカップをテーブル台に置くと、ミレイユのすぐ側まで歩み寄る。
 そのまま、薄く開かれている唇へ自分の唇を押し当てた。
 数秒ほど押し当て、唇を離す。
 された事に少しも驚いた様子も見せず、ミレイユは私を見つめた。
 しばらくの間、息が掛かりそうな至近距離で沈黙を守ったまま互いを見つめる。
「……元気、出して」
 沈黙を消さない程度の音で言葉を口にした。
 こんな言葉なんかでは埋まらない。
 この悲しみは、こんな言葉だけじゃ埋まらない。
 もっと、何かもっと、他に何かあれば……。
 私を見つめていた蒼の瞳がゆっくりと細められる。
「慰めのつもり?」
 抑揚の無い言葉を彼女が口にした。
――――わからない。でも……」
 言葉を切って彼女から一歩だけ離れる。
「そんな表情見るの、苦しいから、元気出して」
 少しづつ顔を背けながら、言い表せない思いを少しだけ口にする。
 それからまた、重い沈黙が走った。
 足元に落とした視線を少しだけ上げる。
 両手に持たれていたカップがテーブル台に置かれていた。
 それを確認して、もう少し視線を上げる。
 細められたままの蒼の瞳と視線がぶつかった。
 少しの間それを見つめて、再度視線を逸らそうとした。
――――続けて」
 小さな声が私の耳を駆け抜けた。
 その声に、逸らしかけた視線を戻して彼女をじっと見つめる。
 私を見つめていた瞳は閉じられていた。
「…………え?」
 今度は本当に言葉の指し示す意味がわからずに問い返した。
「キスを、続けて」
 消え入るような細い声でそう告げられる。
「……うん……」
 告げられた言葉に従おうと退いた足を再度踏み出す。
 先程と同じように彼女へ口づけようと近付いた時、突然身体が前のめりに倒れた。
 ミレイユを相手に油断しきっていた私は、自分に何が起こったのかわからなかった。
 咄嗟に体制を持ちなおそうとした刹那、細い両腕が私を抱き締めた。
 全てが一瞬の出来事だった。
 気がつけば私の肩にミレイユの頬が当たっている。
 お風呂上がりの彼女からは、いつも愛用しているシャンプーの香りがした。
「ミレイ……」
「ありがと、心配してくれて」
 すぐ耳元で優しい声が聞こえた。
 涙を圧し止めているような、そんな風にも聞こえる。
 言われた事に対して、小さく、私は頷いた。
 ぐっと抱き締められる腕に力が篭る。
 そうやって抱き締められたままでも、私の胸の奥の言い表せない感情は消えなかった。
 胸を掻き毟りたくなるような嫌悪感が少しづつ増してくる。
 燻りだした感情を抑える為に、固く目を閉じた。
 奥へ奥へと圧し込む程、小さかった靄は大きくなっていく。
「…………本当に、ありがとう――――霧香」
 その言葉の最後は初めて聞く言葉。
 彼女の口から聞く、初めての音だった。
 全てが嘘だと言って決して口にしなかった『夕叢霧香』と言う名前を。
 存在しない『私』を指す個人の名前を。
 そんな、私を呼ぶ音が聞こえた。
 どうして嫌っていたその名前を口に出したかとか。
 どうして今私を抱き締めているのかとか。
 ふと疑問に思ったそんな事よりも、その名を呼ばれた事が、とても嬉しいと、思った。
 今までに触れてきたどんな出来事よりもただ名前を呼ばれただけの、ちっぽけな事がすごく嬉しいと思った。
 それでも。
 さっきから胸の奥で蠢いている言い表す事の出来ない感情は燻り続けている。
 何故かは本当にわからないけど。
 固く閉ざした瞳に涙が溢れてきて。
 俯いている私の頬を伝って、鈍い輝きを放つ光の粒が一滴、落ちた。

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