thirst

 ―――――徐々に高まる熱を手のひらに感じながら、それ以上の激しい熱を求める。

 もっと、強く。
 もっと、この手に。
 もっと、もっと強く。
 この身を焼き尽くしてしまう程の、もっと熱い熱を。

 今この瞬間に、欲しいと、思った―――――

 転がり落ちた二つの薬莢の音がやけに大きく響く。
 ワンテンポ置いて、目の前の身体がゆっくりと崩れ落ちた。
 鈍い音が耳を駆け抜ける。
 それに弾かれるように、あたしはその倒れた彼に小走りに走り寄った。
 銃弾は狙い通りに左胸を打ち抜いていた。
 その背に広がる僅かに赤黒い染みで、この人はもう助からない事がわかる。
 取り乱す事なく冷静にこの状況を見ている自分に少し驚いた。
 悲しいはずなのに涙も出ない。
 自分を見失う程の悲しみを突きつけられているはずなのに。
 そんな、どこか冷めた気持ちで彼を見下ろしていると無造作に投げ出された右手の指先が微かに動いた。
 失われていくほのかな熱を引きとめるように、あたしは彼の手を取った。
 骨ばった、けれど男の人にしては少し華奢な、大きな手。
 この手は、幼い頃のあたしをいつでも守ってくれていた。
 いつでも、あたしを包み込んでくれていた。
 まだ暖かいその手のひらの熱が、僅かに、ほんの少しづつ、消えていく。
 逃げていくその熱が完全に失われる前に、握っていたその手を離した。
 冷たくなる感覚を感じたくなかったから。
 それに触れてしまうと、あたしは、絶対に立ち止まってしまう。
 今立ち止まる事は簡単だけど、それは出来ない。
 立ち止まってしまえばあたしはもう走れなくなってしまうから。
 しゃがみこんだ腰を上げるとそのまま温室のドアへと向かった。
 振り返る事も、別れの言葉も、何も言葉を掛ける事なく。
 ただ、ひとつだけ。
 彼が好きだと言っていた花を一輪、その胸に手向けてきただけだった……。

 全くの人気のない夜の裏路地を無言のままに歩を進める。
 叔父の屋敷から出て、一度はまっすぐに部屋へ帰ろうかと思ったものの、思い直して少しだけ遠回りをしている。
 すぐ横を間隔を空ける事無くしっかりとついて来ている気配を感じながら、意識はこことは違う別の場所にあった。
 頭の中では、まだ、倒れた彼の背に広がる紅が鮮明に浮かんでいる。
 先程手のひらに取った淡いぬくもりが、まだ手の中に残っている。
 それがあたしの意識を縛り付けていた。
 犯した罪の意識が強くなる。
 その意識から目を逸らすようにすぐ側にいるパートナーへと目を移す。
 やや俯き加減に、それでもあたしの歩幅に合うようなスピードで離れる事無くついて来ている。
 その翳りのある表情を横目に見ながら、相手にわからないように小さく息を吐く。
 ふと、霧香が顔を上げた。
 視線が交差する。
 その紅の瞳に浮かぶ少しの苦悶が混ざった色を見ているうちに、あたしは無意識に進めている足を止めていた。
 胸の中に小さく浮かんできた言葉を口に出しそうになる。
 それをぐっと奥へ押し止めると、あたしはまた止めた足を踏み出した。
 どうかしてる。
 同じものなんて持っていないはずなのに。
 この手の中に燻る淡い熱を。
 どうしていいかわからない程の強い思いを。
 ――――胸の奥で揺れる、チリチリと燻っているこの感情を。
 …………本当に、どうかしてる。
 少しでもこの手の中の熱を失いたくなくて。
 少しでも同じ熱を持っていたくて。
 求めそうになるなんて。
 全くの他人に、それを、期待してしまうなんて。
 消えそうになる彼のぬくもりを逃さないようにきつく自身の手を握り締める。

 ……どうして今頃になって……。

 悲しいだなんて……思うんだろう……。

 突然堰を切ったように溢れ出した気持ちを抑えきれなくなって、あたしは駆け出した。
「あ……っ、ミレイユ!?」
 背に聞こえる声を無視して、アパルトマンまでの少しの道を全力で走る。
 少し遅れてあたしを追う足音が聞こえてくる。
 それを振り切ろうと、なりふり構わずマンションの中へ駆け込み階段を駆け上がると、自分の部屋のドアを開け中へと身体を滑り込ませる。
 後ろ手にノブを持ったまま少し上がっている呼吸を整えようとひとつ大きく深呼吸した。
 と、すぐ側に人の気配を感じて顔を上げる。
 振り切ったはずの霧香が、僅かな呼吸の乱れも見せずそこに立っていた。
 心底心配そうな顔であたしを見つめる。
「……ミレイユ、どうしたの、いきなり?」
 遠慮がちにそう声を掛けられ、もう一歩、あたしに近づくため足を踏み出そうとする。
 それを、何も言わないまま無言で制した。
 握っていたままのドアノブから手を離し、真っ暗なままの部屋の中へと足を踏み出す。
 小さな溜息が後ろから聞こえた後、部屋の扉が閉められる乾いた音が部屋にこだました。
 不意に、部屋に明かりが灯る。
 オレンジの暖かな光が視界で揺れていた。
「……消して」
「え?」
「早く、消して」
 多少の躊躇いを見せた後、静かに部屋の光源が切られる。
 暖かな場所になんて、いたくなかった。
 そんな気分じゃない。
 悲しいままの気持ちじゃ、優しく辺りを照らすライトの光にさえ辛さを感じてしまう。
 泣きたいのに、泣けない。
 涙を流して叫んでしまいたいのに、それすらも出来ない。
 突き付けられた感情があまりにも大きすぎて。
 「悲しい」としか認識出来ない。
 それ以外の感情が、浮かばない。
 手にしていたバッグをビリヤード台に投げ置くと、そのまま一直線にベッドルームへと向かった。
 ジャケットをソファーに脱ぎ捨て、ベッドに腰掛けると履いていたブーツを脱ぎそれもソファーに投げる。
 そしてベッドに身体を投げ出すように倒れこんだ。
 悲しいと思えば思うほど、胸の奥でチリチリと燻る黒いドロドロとした感情が大きくなる。
 だから。
 一人にしてほしいと、願った。
 側に誰かのぬくもりを少しでも感じてしまえば、それに縋り付いてしまいそうで。
 それが仮にどれだけ大切なものだとしても、今は微塵も大切とも思わない程に心が悲鳴をあげていた。
 抑えられない。
 許容量をいとも簡単に超えてしまう程の、そんな絶望にも似た悲しみ。
 わからない。
 どうして、こんなにも心が痛いのか。
 こんなにも、傷ついているのか。
 彼が、自分にとっての唯一の肉親だったから?
 自分に一番深い関わりを持っている人だったから?
 今更失くすものなんて何もないと思っていた。
 一番失くしたくないものは、もうずっと昔に失くしてしまっていたから。
 何かを失う事には慣れているつもりだった。
 それが、あたしが選んだ道に付き纏う、切り離せない闇だから。
 ……そう、思っていたのに。
 音もなく霧香の気配が近づいてくる。
 遅れて衣擦れの音が聞こえた。
 少しだけ顔を上げて霧香の方を見やる。
 部屋を覆う暗闇に目が慣れているのか、乱雑に脱ぎ捨てられているジャケットを手に取り簡単に折り畳んで端へとよける。
 投げ置かれたブーツもきちんと揃えてソファーの横へと置いていた。
 そうして、ゆっくりとあたしに振り返る。
 何か言いたげに真っ直ぐあたしを見つめる。
 その見つめられる視線に引かれるように、あたしは投げ出していた身体をゆっくりと起こした。
 少し手を伸ばせば届く距離に、霧香がいる。
 すぐ側に、いる。
 ふと、あたしを見つめる視線が外れた。
 ここから立ち去ろうと踵を返す。
 咄嗟に、その場を去ろうとした霧香の腕を取る。
 強く引き止められた事に驚きを見せながら振り返った。
「…………ん?」
 不思議そうにあたしの顔を覗きこむ。
 手に取った腕の熱さにドクンと心臓が大きく脈打った。
 強く腕を自分に引き寄せる。
 いきなりの事にバランスを崩してあたしに倒れこんで来る霧香。
「……み、ミレイユ……?」
 抱き止めた肩が熱かった。
 熱を求める渇望が大きくなる。
 この手を離せば、きっと自分を止められなくなってしまうだろう。
 ――――けれど。
 そんな事よりも。
 あたしを見つめるこの紅い瞳に宿る色が今は苦しかった。
 悲しそうに揺れる光が、すごく痛いと思った。
 そんな目であたしを見て欲しくない。
 あたしの苦しみを感じて欲しくない。
 そんな顔なんて、見たくない――――。
 抱き止めたままの肩を強く後ろへと引きつけながら強引にベッドへと霧香を押し倒した。
 少しの驚きの声をあげて霧香の身体がベッドへと沈む。
 上から両肩を押さえ付けたまま、あたしを見るその目を見つめ返す。
 ……いっその事、奪ってしまおうか?
 求めるものと同じでなかったとしても、この感情を静めることぐらいは出来るかもしれない。
 『快感』と言う名のクスリを与えて引き出される熱を。
 今だ手のひらの中で燻っているこの熱が消えないうちに。
 求めるものと全く違うものであっても。
 他の誰かのぬくもりを、今、欲しいと思っている。
 押さえ付けていた右の手を退けると、その頬を指でなぞった。
 柔らかい弾力が指先に伝う。
 それと同時にドクンと心臓が痛いほどに大きく脈打った。
――――ねぇ」
 胸の中で支えていた息を吐き出すように言葉を口にする。
「…………っ……」
 衣服越しにその肌へと触れた。
 やんわりとした暖かさが手のひらに伝わってくる。
「………………」
 拒む素振りは見せない。
 ただ、困惑した顔だけが薄闇の中に浮かんでいる。
 ……望んでるって、事?
 奪われる事を、霧香は、望んでいるとでもいうの?
 手を置いたままの左の胸から伝わる鼓動が、心なしかテンポが速くなっている気がした。
 ……そう。
 ならば……。
――――望み通りに、してあげるわ」
 口の中で小さく呟くと、はだけかけていたキャミソールの裾から中へ手を忍ばせ、そろそろとたくし上げていく。
「っ……ん」
 服をたくし上げる際、同時にスカートの中へと手を伸ばした。
 内腿に舐めるように指を這わす。
 ぴくりと、霧香の身体が反応を見せた。
 同時にほんの少しだけ体温が上がったように感じる。
 まだ、始めたばかり。
 失ったぬくもりに見合うほどの熱を手にするまでは、もう止まれない。
 ――――もし仮に、これが大切だと思うものだとしても。
 自らが犯した罪の前には、微塵も思わない。
 ただ、欲しいと、思うだけだ。
 それがあたしの身勝手すぎるエゴであっても――――。

 ――――徐々に高まる熱を手のひらに感じながら、それ以上の激しい熱を求める。

 もっと、強く。
 もっと、この手に。
 もっと、もっと強く。

 この身を焼き尽くしてしまう程の、もっと熱い熱を――――。

 十分に湿った指先をうっすらと熱を帯びた肌の上に滑らせる。
 指に纏わり付いていた体液が肌に伸びていく。
 小さく荒く息を飲む声が聞こえる。
 それを無視して、肌を滑らせていた指先を下へ下へと滑らせていく。
 爪先が微かに肌を引っ掻く度、ビクリと小さくだけど身体が揺れる。
 それを冷ややかな目で見下ろしながら、一番熱い熱を持つ場所へと指を沈めた。
 最初に触れた時よりも強い熱が指に纏わり付く。
 その熱を取りこぼす事のないようにその場所へと唇を寄せる。
 ビクリと大きくその身体が揺れた。
 喉から漏れる殺しきれていない声が少しづつ大きく、甘く、艶やかなものになる。
 容赦なく責めたてる指や舌の動きや叩きこまれる感覚に、それまで緩く握られていたシーツを握る手に、されるがままに開かれている身体に強い力が篭る。
 そうして。
 いつまでも続くかと思われた小さな抵抗がやんだ刹那、大きな声と共にガクンと大きく身体が揺れる。
 ピンと張り詰めていた糸が切れたように霧香の身体から力が抜けた。
 ――――この肌の下には、今感じている体温よりも強い熱があるのだろうか?
 あたしが求める、この身を焦がしてしまう程の強い熱が、あるのだろうか……。
 抱えていた腰をゆっくりとベッドに落とす。
 その身体は支えを無くした人形のように力なく沈んだ。
 荒い小刻みの呼吸が辺りの静寂に溶けていくのを、いつまでも見ていた。
「…………っ……」
 握っていた手のひらにあった熱がいつの間にか消えていた。
 それを嫌と思い、忙しく上下する胸の動きが収まってきた頃、濡れたままの手のひらで首元をなぞる。
 それだけの緩い刺激でも、熱を纏ったこの身体は大きな反応を見せた。
 首筋を強く手のひらで撫でつけ鎖骨を指先で辿る。
 そうして、辿る指先に力を込める。
 柔らかい肌を引き千切るような力で、何度も、肌を撫でつける。
 今この瞬間に、この手にしている温もりを失ったら、果たしてあたしは正気でいられるのだろうか。
 冷たくなっていく感覚を突きつけられても、あたしはあたしのままでいられるのだろうか。
 あの時と同じように、平静を装っていられるのだろうか。
 ……それは、否。
 あたしは絶対に正気でいられない。
 こんなにも感じた熱が突然失われたら、あたしは自分を保てなくなる。
 それだけは、耐えられない。
 肌をなぶる様に撫でつけていた手の動きを強く大きなものにする。
 不意に。
 指先に纏わりつく感覚とは違うぬるリとした感触に気づく。
 不思議に思ってそれを掬って指先に視線を落とした。
 闇の中では何が付いているのかはっきりとはわからない。
 そのぬるりとした感触をもう一度指先でなぞる。
 一瞬だけ、脳裏に地に広がる鮮明な紅が過る。
 それにはっとなって、指先に付着したその液体を自分の舌先に軽く押し付けた。
 さらりとした感覚の後に僅かに広がる鈍く重い鉄の味。
 背筋がぞっとした。
 そして、あたしは我に返った。
 首元に見える黒い影を手のひらで拭い、付けてしまった傷痕を指でゆっくりとなぞる。
 僅かに息を飲む声が聞こえた。
 ズキリと、胸の奥が軋む。
「…………痛む?」
 恐る恐る、そう口を開いた。
 少しの間を置いて、頭を横に振る動きが見える。
「……私は、平気」
 僅かに笑みを含んだ声が聞こえて、目の前の霧香がゆっくりと身体を起こした。
 たくし上げられたキャミソールもそのままに少しづつ出血をしている傷に触れた後、血がついた自身の指先をペロリと舐める。
「大丈夫。少し抉れてるだけだから」
 気にしないで、と小さく笑って見せる。
 それがまたあたしの胸の奥を大きく揺さぶって、あたしは霧香から顔を反らし目を伏せた。
 わかっていた。
 例えどんな事をしても、例え激しい痛みが伴う程の消えない傷を付けたとしても、目の前のこの少女はあたしを許してしまう事を。
 わかっていた。
 だから……求めてしまった。
 だから、欲しいと思ってしまった。
 この身を焦がす程の熱を。
 あの時失いそうになった、逃したくない暖かさを。
 もう二度と戻る事のないあのぬくもりを。
「……ミレイユ?」
 遠慮がちにあたしを呼ぶ声が聞こえた。
 それに少しだけ顔を向ける。
 暗闇ではっきりと見えない霧香を見つめる。
――――好きだった、叔父さんが」
 ふと、そんな言葉が口をついて出た。
「あたしにとって、唯一の家族であり、尊敬し、一番信頼できる人。とても好きだった。……もしかしたら、少しの恋愛感情も、持っていたのかもしれない」
 ポツリと話し始めたあたしの言葉をひとつも取りこぼす事のないよう、真っ直ぐにあたしを見つめる瞳が痛く感じて、再度顔を背けた。
 久し振りに会って、それでわかった。
 あたしは叔父さんが好きだった。
 少し、なんかじゃない。
 本当に、本当に、好きだった。
「叔父さんの口からノワールやあんたの事を聞いた時、本当に時が止まってしまうかと思った。そして……ショックだった」
 叔父さんに裏切られた事に対してだとか。
 パートナーを裏切れと言われた事に対してだとか。
 教えられた真実に対するショックだとか。
 色々な事が一気にあたしの中に圧し掛かって来て、一体どれが本当なのかわからなかった。
 一番信じれるはずの叔父さんの言葉でさえ、手に取る事を躊躇ってしまった。
「……あの時は、ああするしかないって思ったわ。撃つしかない、って」
 まるではじめからその選択肢を決められていたように、あたしは銃をとった。
 誰かの描いたシナリオ通りに。
 もし、あそこで霧香を渡していたら……今のこの気持ちを味わう事はなかったのだろうか?
 こんなにも自分とは違う熱を求める事はなかったのだろうか……?
 それは……これも、きっと否。
 無意識の内にあたしの中で大きくなっていた想いに、気づいてしまったから。
 芽生えはじめた想いを、投げ出す事が出来なかったから。
――――捨てる事が出来なかったのよ。……あんたの事を、どうしてか」
 視線を戻すと、あたしを真っ直ぐに見つめる瞳と視線がぶつかった。
 どんな表情をしているのかは逆光のこちらからではよくわからない。
 だけど、うっすらと闇に浮かぶ霧香の顔には。
 あたしの気のせいかもしれないけれど、柔らかな笑みが零れているように思えた。
 どうして笑っていられるのかなんて聞いたところで、きっとあたしが今思っている事と全く同じ答えが返ってきそうで。
 そんな霧香の笑みを見つめていると、この先の言葉は言わなくてもいい気がして。
 何も言わないままで受け止めていた視線を目を閉じて遮ると、すぐ目の前の霧香の首筋に再度指を滑らせた。
 吸い込まれるように先程付けてしまった傷痕に唇を寄せる。
 抉れている肌を何度もゆっくりと舌先でなぞっていく。
 そっと霧香の両手があたしの肩を掴んだ。
 剥き出しの肩に直接感じる熱い程の手のひらの温もりが、先程まであたしを支配していたどす黒い感情を少しづつたき立てて行く。
 執拗に責めているその痕を強く吸ってみる。
 瞬間的に聞こえた息を飲む声と同時にグッと強く頭を抱きすくめられた。
 舌に広がる僅かに血の混じった唾液を飲み下し、その場所を離れて唇で首筋を上になぞっていく。
 耳朶を甘噛みしながら、首筋に滑らせた右の親指で薄く開かれている唇をなぞった。
「…………霧香」
 すぐ耳元、相手に聞こえる程度の低音で、霧香の名を呼んだ。
 言いたい事は山ほどある。
 ぶつけたい気持ちも、数え切れない程にある。
 ぬくもりを求めたのも、本当は誰だって良かったわけじゃなくて。
 悲しみや孤独感から逃れるためのただの馴れ合いだって事もわかってる。
 これが普通に抱いている感情じゃないって事も。
 グッと強く霧香の肩を後ろへ押して再度ベッドへと押し倒す。
 間髪入れず上に覆い被さると開かれていた薄い唇を自身の唇で塞いだ。
 軽く触れるだけのキスをゆっくりと何度も交わす。
 欲しいと思っているのは、失いたくない胸の中にあるあのぬくもり。
 それよりも今欲しいと思うのは、今この手の中にいる、霧香の想い。
 わかってる。
 あたしが求めていたのは。
 あの人とは違う、別の温もり。
 あの人とは違う、別の感触。
 あの人が与えてくれていたものとは違う、もっと別の、愛情。
 軽く交わしていたキスが深いものへと変わっていく。
 差し込んだ舌先が相手に触れ、ゆっくりと交わっていく。
 愛しいと、思った。
 今のこの瞬間が。
 触れているこの温もりが。
 決して手放したくないと思った。
 相手の呼吸までもを貪るような深い深い口づけから、そっと唇を離す。
 細い細い銀色の糸が二人を繋いだ後、すぐに切れた。
 あたしは目を閉じたままで、霧香から顔を逸らした。
 やんわりと頬を触れられる。
 傷ついたものを労わるような、そんな、優しい感覚を覚えた。
 ……自分勝手だ。
 結局は、失う事も受け入れる事も、怖いと思っている。
 叔父を失った事を免罪符にして逃げようとしている。
 優しくされる資格なんてないのに。
 慰めてもらえる資格なんてないのに。
 辛いと、感じてしまう。
 今まで手にしていたぬくもりを振り払うように、あたしはベッドから立ち上がった。
 そのままくるりと踵を返す。
「っ、……!」
 細い声が後ろから聞こえた。
 少しだけ振り返ると、今にも泣いてしまいそうな不安げな表情であたしを見つめていた。
 ……振り切れない。
 ほんの僅かでも愛しいと思ってしまったから。
 憂いた顔なんて見たくないと、思ってしまう。
 霧香へと向き直ると、ぽんと軽く頭へと手を置く。
「……大丈夫よ。ありがと」
 出来るだけ穏やかに言葉を口にする。
 不意に。
 口元に笑みが零れた。
 何が可笑しいのかわからないけれど、湧き上がってくる笑いを必死に噛み殺す。
 いつからこんなに弱くなってしまったんだろう。
 いつからこんなに……他の他人を愛しいと思うようになったんだろう。
 どちらも、とうの昔に忘れてしまっているのかと思っていたのに。
 頭に置いた手でくしゃくしゃと少し乱暴に霧香の頭を撫でる。
 驚いた顔をしながら、それでもされるがままでいる霧香。
 撫でている手を離すと、あたしは再度踵を返してベッドルームから立ち去る。

 一番最初に欲しいと願った手のひらの中の熱は、もう消えていた。

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