青空

「だからって、何でこうなるわけ?」
 怒った声が背後から聞こえる。
「いいじゃん、いいじゃん。気分転換!」
 気持ちのいい青空に向かって大きく背伸びをして、くるりと声の方へ振り向いた。
 講堂の影の扉から動こうともせず、ジッと私を睨んでいる。
 それにやれやれと肩を竦めて見せて、桜の木へと向き直った。
「ったく。優等生ちゃんだね、蓉子は」
「あのね、聖。私は、あなたが具合が悪くて保健室に行くと言うから付き添いで一緒に来たの。誰も一緒に授業をサボるなんて一言も言ってないわ」
 良く通る声が辺りに響く。
 けれど、多少騒いだところで誰かに見つかるという心配はしなくても良かった。
「いいじゃない。やれ授業、やれ試験勉強って、息が詰まっちゃう」
「そりゃあね。ここは勉強をするための場所で、明日は期末試験だもの」
「だから息抜き、でしょ?」
「大事な授業までほっぽり出して息抜きなんてしたくないわ」
「ほーんと、お堅い優等生さんだこと」
 木の幹へ背を預けて、蓉子に笑って見せた。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 こめかみがピクリと動いたのを感じる。
 私に向けられたその笑みが、忙しくしている私へ嫌味と同情の笑みに見えてカチンとくる。
 別に優等生を演じようとしているわけじゃない。
 ただ当たり前な事を注意しているだけなのに。
「あなたこそ、不真面目な生徒会長ね。自分が白薔薇さまだって事を、もう少し自覚して欲しいものだわ」
「だったら戻れば? チャイム鳴ってからまだ10分も経ってないけど」
「聖もよ」
「戻る気なんてさらさらないし」
「何でよ?」
「言ったでしょ。息抜き」
 そう言って聖は凭れていた桜の木の陰に姿を消した。
 私も慌てて木に駆け寄る。
「ちょっと聖、ここでどうするつもり?」
「寝る。適当に自分で起きるから行ってもいいよ」
 私の方も見ずにそう言うと、桜の木の根元に寄り掛かって目を閉じる聖。
「ちょっと、本気?」
「……………」
「聖?」
「……………」
 無視を決め込んでいるのか、私の呼びかけに全くの知らん振り。
 どうすれば目の前の不真面目な友人を動かせるか必死に考えを巡らす。
 こうなったら、口うるさく言うしか道はなさそう。
 テコでも動きそうにない聖の前に立ちはだかって、大きく息を吸った。
「さっさと起きて! 授業に戻るわよ! 聖? 聞いてる?」
「……あんまり騒ぐんなら、私にも考えがあるけど?」
 面倒くさそうに身体を起こして髪をかきあげてから、ちらりと私を横目で見る。
 その目は、初めて聖と出会った頃の冷ややかさがあった。
「何よ。力技にでも出る?」
「まぁね」
 答えるが早いが、早業で聖は私の腕を乱暴に引き寄せた。

◆  ◆  ◆  ◆  ◆

「ちょっ、聖?!」
 私の胸に倒れ込んで動転した蓉子が顔を赤くして更に大きな声をあげた。
「うるさい。バレるでしょーが」
「は、離して!」
「やーだよっ」
 慌てふためくその反応が面白くて、両手首をそれぞれ掴んで自由を奪う。
「離したら、いいこと出来ないでしょ」
「な―――っ?!」
 心底驚いた顔をした後、赤い顔が更に赤くなった。
「ば、バカッ! 何ですぐにそうなるのよ!」
「だから、騒ぐと見つかるってば」
 掴んでいた左手を離すと、その手で蓉子の頭を引き寄せて唇を奪った。
「っ!!」
 離れようともがくけれど、ガッチリと頭と腕を掴まれて僅かに身を捩る事しか出来ない。
 やがて、触れるだけのキスから相手を貪る深い口づけに変わってくると、さすがに抵抗は無くなった。
 柔らかい口内をじっくりと味わって、熱い舌先を弄んで、向こうがそれに馴染んで来たのを見計らって唇を離す。
「っふ、っ……」
 夢うつつな表情で深く息を吐く蓉子。
「結構上手くなってきたんじゃない?」
「……何処かの誰かさんが場所を問わず否応なしにしてくるから、でしょう?」
 羞恥心を押し殺すような声でそう呟く。
「その何処かの誰かさんにそうされるのを望んでるのは、何処の誰だっけ?」
「あなたね……!!」
 至近距離で声を張り上げられ、耳にキンと来た。
 蓉子から手を離して自分の両耳を塞ぐ。
 奥の方で蓉子の声がまだ響いている。
「ちょっ、待っ、耳っ、きたっ」
「何度でもやってあげるわ! 大バカ! 節操無し! なん……っ―!!」
 セリフを全部言い終わらせない内に、喚き散らしてくる蓉子をぎゅっと強く胸に抱き竦めた。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「黙ってないと、もっとイタズラしちゃうからね?」
 すぐ耳元に笑いを含んだ声が聞こえる。
 そんな事よりも、今自分の頬に当たっているのは聖の胸の膨らみだ、とか。
 自分とは全然違う香りだ、とか。
 こんなにもドキマギしているのはもしかして自分だけなんだろうか、とか。
 色々な事が頭の中を猛スピードで通り抜けて行って。
 けどやっぱり、抱き締められてほんの少しだけ嬉しいと思う自分がいた。
「やれやれ、やっと静かになった」
「黙ってあげたのよ」
 冷たく言い放つつもりが、言葉の端々に笑みが残る。
 やっぱり、何か癪だ。
 自分だけがこんなに舞い上がってるなんて。
「それで、いいかな?」
「何を?」
「サボリ。すんごく眠い」
 ずしっと私に抱きついたまま寄り掛かってくる聖。
「ちょっと、重い」
「あ、言ったな」
 今度は、ごろんと最初に寝転んだ桜の木の根元へ凭れる。
「蓉子も重い」
「もう、子供みたいよ」
 抱き締められたまま聖の腕の中で笑った。
 心地良い。
 そう心の底から思った。
――――それじゃ、この時間だけだからね?」
「……………」
「……聖?」
 呼びかけて、私は大きく溜息をついた。
 抱き締められている腕からゆっくりと抜け出すと、もう夢の中へと落ちて行った友人の顔をまじまじと見つめた。

◆  ◆  ◆  ◆  ◆

「……バカ」
 小さく笑いを含んだ声が聞こえた。
 それが妙に優しく聞こえて、緩みそうになる口元をきゅっと引き締める。
 この感覚が心地良い。
 心からそう感じた。
 目の前にいた気配が動いて、ゆっくりと遠慮がちに私の隣に落ち着く。
「あーあ、本当に授業サボるなんて」
 誰に言うでもなく呟いて、再度小さく笑う声が聞こえる。
 そうして、左肩に重みが掛かった。
「……責任取りなさいよ、聖?」
 拗ねたような小さい声がしっくりと胸に染み渡って、トクンと僅かに強く高鳴る。
 何だか気恥ずかしくて。
 舞い上がっていく気持ちを必死で押し留めながら、すぐにでも緩みそうになる顔を保つ。
 これじゃ、何か一人で舞い上がってるみたいで不公平だ。
 こんなに嬉しいだなんて。
 僅かにそよいでいる風も。
 凭れた木の感触も。
 腕に寄り掛かっている温もりも。
 自分の周りの全てのものが、一気に愛しくなる。
 こんな気持ちにさせるなんて。
 やっぱり、何か癪だ。

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