Sweetness

 少しだけ上がった呼吸を整えるために、大きく深呼吸する。
 もう通い慣れた薔薇の館だけれど、この中にいるであろう人の事を考えると僅かながらにも緊張してしまう。
 もう一度、自分に喝を入れるために深呼吸して、ドアの向こうへと足を踏み入れた。
 しんと静まり返っている館内。
 出来るだけ音を立てないようにして階段を登って、二階の部屋の前で立ち止まった。

 ……ここまで来ておいてだけど、やっぱり入るのが躊躇われた。
 今、何を思っているのだろう、とか。
 あの人の事を想っているんだろうか、とか。
 もしかしたらもう帰ってしまっているのではないだろうか、とか。
 思いに耽っている所を邪魔しても悪いし……。

 ドアノブを掴むか掴まないかで悩んでいると、突然目の前の扉が開いた。
 ばったり、といった感じで、きっちりとコートを着込んで帰り支度を済ませた白薔薇さまと鉢合わせる。
 扉を開けたすぐの所にさっき由乃さんと帰ったはずの私がいたりするものだから、白薔薇さまはただきょとんと私を見つめていた。
「どうかした? 忘れ物でもしたの?」
 ようやく我に返ったのか、うっすらと笑みを浮かべた白薔薇さまが部屋から出てきた。
「……まぁ、忘れ物と言えば忘れ物のような」
 白薔薇さまが心配でとんぼ帰りしました、なんて言えない。
 だって、さっき鉢合わせた時にわかったから。
 あの顔は、ついさっきまで想っていましたって。
「大した事ではないから、別に明日でもいいかなって」
「そう思いながらここまで来たの?」
「……まぁ、成り行きで」
「ふーん」
 言いながら白薔薇さまはさっき出てきた部屋のドアノブを回して扉を開けた。
「あれ、お帰りではないんですか?」
「思った以上に寒いから出戻り。ほら、入った入った」
 私の背中を押して部屋の中へと入ると、白薔薇さまは切ったばかりであろう電気ストーブとポットのスイッチを入れた。
「何飲む?」
「じゃ、ココアを……って、私がやりますっ!」
 慌ててコートを脱いで流しに向かおうとしたら、手で制されてしまった。
「いいよ、ついでだし。座って待ってなさい」
 まるで飼い犬に言い聞かせるようにビシッと椅子を指差されて、つい従ってその通りに着席してしまった。
 それからしばらく、お互いに黙ったままでいた。
 口を開いたら不用意な事を言ってしまいそうだったから。
 白薔薇さまも、流しに向かいっぱなしで一度もこちらに振り返る事はなかった。
 何となく、気まずい雰囲気。
 そんな中で、お湯が沸いた事を知らせるアラームが鳴って、また静かになる。
 ぼんやり窓の外を見ながら、今日の晩ご飯は何かなと違う事を思って、ふと静か過ぎる事に気付いた。
 視線を窓から流しへと向ける。
 さっきと同じ態勢のままで白薔薇さまは立ち尽くしていた。
 しっかりとコートを着込んだ状態で、片手にはコーヒーの顆粒が入った瓶を持ったままで固まっていた。
「白薔薇さま……?」
 恐る恐る声を掛ける。
 けれど何も返事は返って来ない。
 席を立ってゆっくりと近づいてみた。
 脇から顔を見上げるような感じで白薔薇さまを見る。

 ドキッとした。
 泣いているわけではないのだけれど、泣いているように見えたから。

 声を掛けようと口を開いたのと、ぽんと頭を小突かれたタイミングが重なった。
「ぐぁ」
「大人しく座ってろって言ったでしょ?」
 悪戯をとがめるような、言い聞かす口調。
 でも口元は笑ってた。
 さっき見た顔は、もうない。
 ……見間違いだった、のかな?
「ほら、戻った戻った。おいしいココア作ってあげるから」
「うわっ」
 笑いながらくるりと身体を回され、ぽんぽんぽんと背中を叩かれて数歩たたらを踏んだ。
「もー……白薔薇さ――――……ま?」
 体勢を整えて振り返ろうとした刹那。
 トン、と後ろから右肩に何かが当たった。
 頬にさらりとした感覚の後、微かにミントの香りがした。
 それが白薔薇さまの髪だと気付くまで、たっぷり十秒は要した。
「……あの……?」
 肩に押し付けられた頭が微かに左右に動いた。
「……もう少し……ごめん」
 普段聞かない、細い声。
 捕まれた腕が少しだけ強く握られる。

 ……どうすればいいんだろう。
 慰めの言葉を掛けようにも、何も浮かばないし。
 ましてや白薔薇さまを振り払うなんて事出来ないし。

「……わかってるよ、どうして祐巳ちゃんが戻って来たのか」
 何も言ってないのに何でわかってしまったんだろう。
 ……もしかして、また百面相してたのかな……?
 うわっ、何だか自己嫌悪。
「……優しいね、君は」
 また一人で百面相していると、耳の後ろの方からポツリとそんな呟きが聞こえた。
 感情を抑えた声。
 泣いているような、そんな声。
「どうしてかな。すんなりと私の中に入ってくるのは」
「えっ?」
「求めた覚えはないんだけど」
 何を言われているのかわからなかった。
 求めるなんて、私は……。
「……どうして私を気にかけるの? 心配だから?」
 そんなの決まってる。
 心配だから。
 大切な人だから。
「……好きだからです。白薔薇さまのことが」
 だから少しでも力になってあげたい。
「好き、か……」
 少し笑みを含んだ呟きが聞こえた後、突然腰に腕を回された。
 ぎゅっと白薔薇さまに抱え込まれるように背中から抱き締められる。
 いつものような冗談で抱き締められるのとは違うと感じた。
 大事なものを抱えるような、そんな抱擁。
「そんなに優しくされると、甘えたくなるね」
 言葉を確かめようとして頭の上から降りてきた声に僅かに上を向く。
 けれど、それを制するかのように頭の上に柔らかい何かが乗り掛かった。
 上を向くなって事なんだってわかって、仕方なく視線を元に戻した。
「甘えるって?」
「……君の想像に任せるよ」
 幾分柔らかい声でそう言うと、抱き締めていた腕を解いて私を解放した。
 振り向いてもいいんだろうか?
 でも、さっきからずっとこっちを見るなって態度で言われているし。
 このまま背中越しで話をするのも、何だか私がやきもきしてしまいそうだし。
 かたんと後ろから小さな音がした。

 ……………………よし。

 回れ右の要領でくるりと、思い切って振り返った。
 白薔薇さまは、近くの椅子に腰掛けて真っ直ぐに私を見ていた。
 うっすらと口元に笑みを浮かべて。
 それは、数時間前にこの部屋で見た笑顔と似ていた。
 いつもの大胆不敵、自信満々な笑みではなくて。
 触れると壊れてしまいそうな脆いガラス細工みたいな。
 今にも泣き出してしまいそうな、そんな表情だった。
―――――とうに」
 笑みを零したまま顔を伏せた。
「君は……………」
 そこまで呟いて声が途切れた。
 だから、私はそんな白薔薇さまの傍に歩み寄って、肩を引き寄せた。
 肩に置いた手に伝わる震えとか。
 悲しそうな姿とか。
 もう限界なんだって事が痛い程わかったから。
 縋ってもいいって、泣いてもいいって、伝えるように。

 ぽすんと私の胸に白薔薇さまは頭を預けると、小さく何かを呟いて一粒だけ涙を流した。
 感情が詰まったそれは私のスカートを掠めて、床に落ちて散った。

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