Lame noire

走る。
灯りの届かない暗の中を走る。
背後をついて来る者は何もいない。
けれど、言い知れぬ恐怖に怯えた目には。
この闇の中から抜け出る事しか浮かんでいない。

走り続けているためか呼吸が上がっている。
体力の限界を、脚が、身体が、呼吸が、訴えていた。

ダメだ、ダメだダメだダメだ……!!
止まる事なんて出来ない……早くここから……!

とっくの昔に身体のピークは過ぎている。
脚ももつれてしっかりと走っているわけではない。
一度も振り返る事なく、ただ闇雲に出口を求め彷徨い走る。

頭の中には、ひとつのイメージが思い描かれていた。
それは音もなく地上に現れ、見る者を本当の闇へと突き落としていく。

おぼろにその姿が思い出される。
薄闇の中で見たものは、確か人の形をしていた。
自分よりもずっと小柄で、華奢な体つきをしていた。
少年、あるいは少女。
何よりも。
うっすらと浮かんだ闇よりも暗い赤が目に焼き付いて離れない。

強く恐怖を感じた瞬間、脚がもつれて前のめりに地面へと叩き付けられた。
身体を起こすよりも先にその恐怖の元である描いたイメージを無理矢理に掻き消す。
そうして、よろよろと言う事を聞かない身体を起こした。

この闇の中には恐怖が渦巻いている。
それに、飲まれたくない。
飲まれてしまえば、もう、戻れない。
それは、嫌だ。

ジャリ、と。
小さな砂を踏む音が男の耳を駆け抜けた。
弾かれるように音のした方へと顔を向ける。

生憎、あまりの恐怖故に自分の持っていた武器をどこかへ捨て置いてきてしまっていた。
自分が丸腰である事を改めて感じると、言い知れぬ恐怖が身体中を駆け抜ける。

逃げる事は叶わないのか。
一度目にした闇からは、逃れる事が出来ないのか。

小さく規則的に聞こえる砂を踏み付ける足音に合わせて、男も一歩、また一歩と後ずさる。
月の僅かな光も届かない雑木林の中、一瞬だけ、脚を踏み出す姿が垣間見える。

思い描いたイメージと同じ、華奢な体つきの、小柄な、少女。

死を、予感した。

生きてはいられないと本能的に察した。
けれどそれでも死に抗うのは、醜いまでの生への執着。
男は、震える脚をなんとか踏み出して、迫りくる恐怖から逃れようと踵を返した。

……その筈だった。

前方から感じる冷たい視線に阻まれ、脚を踏み出せない。
今すぐにでもこの場を逃げ出したいのに、それを上回る恐怖に思考や身体を支配され動けずにいる。

じりじりと確実に近づいてくる死の影。

何も出来ず、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来ない己の無力さを、男は呪った。
追い込まれ、恐怖を植えられ、果てに待つのは死のみ。

狩られる獲物の、何とも悲しい性よ。

一瞬、辺りを騒めく葉擦れの音が消えた。
同時に、頭に、身体に、熱い感覚を覚える。

そこで、男の意識は途絶えた。

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